電通総研

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「クオリティ・オブ・ソサエティ」レポート
こちらは2023年までの電通総研が公開した調査関連のレポートです。過去のレポート記事は、以下のリンクからご覧いただけます。毎年掲げるテーマに即した、有識者との対談、調査結果、海外事例、キーワードなどがまとめられています。
電通総研 トークイベント
多様な人が混ざり合うということ ─別府が描く多様性の未来を探る

2022年11月26日、別府市民・学生大同窓会のプログラムの一つとして、「多様な人が混ざり合うということ──別府が描く多様性の未来を探る」をテーマに、トークイベントが開催されました。大分県別府市は多様性が尊重されている地域として注目を浴びています。別府の持つ多様性とはどんなものなのか、そして別府以外の地域でも多様性が生かされていくには今後どうすべきなのかについて、片山俊大氏をモデレーターとして、大日方邦子氏、山下達夫氏、光浦高史氏の4人が語らいました。

【大日方邦子氏】アルペンスキーとの出会い

○大日方 私の考える多様性は、アルペンスキーを原点としています。もともと私は、3歳のときに交通事故で足を切断しまして、右足は義足を使い、左足にも後遺症が残っています。歩くことも少しはできるんですが、長く立つことや、速く動くことはなかなか難しい障がいです。そういう中で、スキーは「できない」と思っていましたが、高校生のときチェアスキーという、座って滑ることができる競技用具をたまたま目にしまして、そこから人生が変わりました。

スキーとは両足にスキー板を履き、スキーブーツを履いて滑るものだという思い込みが私の中にもあったと思うんですが、チェアスキーの存在を知り、立って滑る必要は必ずしもないということに気づきました。チェアスキーという道具を介して、障がいがあっても、雪上に出ることができる。そもそも、スキーやスキーブーツという道具を使わないといけないという条件は、障がいのある人もない人も皆一緒なんです。

スキーは、山の上から下に向かって重力を利用し、バランスをとりながら移動していきます。雪面から受ける力を、スキー板を通じてどうコントロールするか、体のどこをどう使うか、立って滑る人と座って滑る人では違う部分もありますが、理屈は同じなんです。道具を使いこなす技術と運動能力があれば、私も雪山を楽しむことができる。私にとっては、「いろんな人が混ざり合える場所というのが雪の上だ」というのが多様性を考えるスタート地点だったなというふうに思います。

多様性は「何かが起こる」こと

○大日方 パラリンピックに出場するようになると、いろんな海外の人たちとも話をする機会があります。試合に対する向き合い方も非常に多様です。パラリンピックでは選手村があって、そこでいろんな人たちと一緒に食事をする機会があるんですが、そこでも多様性を感じました。日本人は、試合の前にはできるだけ消化のよいものを食べて、早く休む。でも、アメリカの友人は、がっつりステーキを食べてしっかりと噛んで、力をつけて、明日への勝利を自分に誓うんだと言いながら、たくさん食べていたんですね。「そんなに消化の悪そうなものを食べて大丈夫なの」と言ったら、「そんなに力のつかなそうなものを食べていて大丈夫なのか」って逆に聞かれたりもしました。ありとあらゆるものが違う。でも、何か一つ、思いや場が一緒になると、違う国から来た、いろんな人が混ざり合っていくことができる。道具を工夫したりすることで共に楽しむことができて、何か新しいものが生まれてくるということが、スキーを通じて感じた多様性です。

○片山 パラリンピックだと、オリンピック以上に、いろんな道具みたいなものの開発、いろんな最先端の技術とか、いろんな企業とのコラボとかがあるかと思います。そのときに、最初はわかり合えてないけど、お互いが理解し合って、そして、そこで何かイノベーション的なことが起こる経験もありそうかと思うんですけど、いかがですか?

○大日方 チェアスキーが開発されたのが1980年ぐらいで、ちょうど40年ぐらいは経っているんですが、最初はそもそもチェアスキーという概念がなかったので、何も決まりがない中で試行錯誤されながらつくられてきています。例えば、今、私は1本のスキー板で滑っていますけれども、これは別にスキーは1本、というルールがあるわけではないんです。2本板で滑ることもできるし、最近のパラリンピックに2本の板で滑る座位選手も出場していました。スキーヤーと開発者が、いろいろディスカッションをし、トライ&エラーをしながら、どれが速いんだろうということが考えられてきました。バイクのサスペンションの考え方が良さそうだねということで、バイクから部品を取ってきたりとか、空気の抵抗が少ないほうが有利なので、いろいろな企業が「カウル」という足を覆うカバーを開発するなど、様々なノウハウが蓄積されています。

○片山 こうやって歴史の話と思って聞くと、ちょっと真面目な気持ちになっちゃいますけど、当時のことを想像してみると、足は動かないけどスキーやろうよと言った人がいて、「チェアでやっちゃえばいいんじゃない」とか、「2本? 1本?」みたいな研究があって、楽しかったんじゃないですか。

○大日方 すごい楽しかったと思います。私は、残念ながら第一世代ではないんですが、開発をした当時の先輩たちから聞いたところによれば、もう何より楽しかったんですって。昔はスキーをやっていたけれども、車いすで生活をするようになった人が、もう一度山の上に行きたい、もう一度滑ってみたいんだという夢を叶えたい人がいて、それを、「じゃ一緒にやってみようか。つくろうか。」という技術者がいて、それをサポートする医療の看護師さんやお医者さんがいて。そういう方々と一緒に、開発が始まったんですね。その開発秘話を聞いているだけでわくわくしますし、もうちょっと不真面目な話をしますと、私がその世界で一番教えてもらったのは、恋バナです。

○片山 なるほど。その開発をしながら。

○大日方 そう。開発しながら、開発者とテストスキーヤーの間で恋愛が生まれたりとか。パラアスリートは清廉潔白です、みたいな感じで見られすぎちゃうと、若干居心地悪いなというか。人間なので、当たり前ですけど、泥臭いですし、その中から生まれてくるものっていろいろとあると思う。

○片山 想像すればするほど、わくわく感が伝わってきますね。足が動く人と動かない人で、「えっ、こうなるの?」とか、「えっ、そうなんだ~」とか言って相互理解を深めながら、イノベーションが起こったり、恋が起こったり、そういったような……。

○大日方 そうですね。例えばイノベーションの話でいうと、知り合いの全盲の水泳の選手は、すごい再生速度を上げてコンテンツを聴くんですね。今、若い人たちって、YouTubeとか見るときも、再生速度を上げますよね。さっき電通総研の若い社員に聞いたら、2倍ぐらいまでは聴けると。パラリンピックの視覚障がいの選手は、全ての情報を音声で聴き取るんですが、3倍までいけるらしいです。私は3倍速だと聴き取れなかったんですけど、今後3倍速でも聴きやすいというものがきっと発明されると思いますし、そしたら情報がたくさん欲しい人は3倍情報が取れるようになるかもしれないですよね。

【山下達夫氏】パラリンピックと太陽の家

○片山 そもそも、パラリンピックというもの自体は、「太陽の家」の創設者の中村裕先生がつくったと聞いております。そういったお話も踏まえながら、多様な人が交わることについて少しお聞かせいただければと思います。

○山下 もともと中村裕は整形外科医なんです。1960年代、彼は、イギリスのグットマン博士という方がいたストーク・マンデビル病院に留学しました。その頃日本では、脊髄損傷になった場合、病院に入院して社会復帰するまで最短でも2年ぐらいかかったらしいんですけど、イギリスでは半年で社会復帰していた。これは何故だろう。手術の仕方が違うんじゃないかということで、中村先生はグットマン先生にいろいろと聞いたんですけど、実は手術は日本のほうが優れていたんですね。ではこの2年間と半年の違いは何かというと、ストーク・マンデビルでは、スポーツをやっていたんです。ストーク・マンデビルはパラリンピック発祥の地です。スポーツをやることがリハビリの一つになるということで、中村裕は日本で最初にリハビリに車いすバスケットボールを取り入れて、1964年のパラリンピックの選手団長になったということなんです。

パラリンピック開催にあたり、障がいのある方々を見せ物にするのかとかいって、当時かなり批判が出たんですけど、反対を押し切ってパラリンピックを成功させました。実は大分の国際車いすマラソンも中村裕が提唱しました。1981年の「国際障害者年」を記念して、大分で車いすマラソンがスタートしたんです。

行ける場所ではなく、行きたい場所に行く

○山下 私は、四肢麻痺です。右手・右足は知覚はあるので痛い、痒いという感覚はあるんですけど、運動神経に障がいがありますので、手も足も全く機能していない状態です。左手は、肩に障がいがあるので手を上げることができない。左足も、足首しか動かないんですね。車いすは、左の手首と左の足首でこいでいるんですが、私は中学校まで車いすに乗ったことがなかったんです。中学校までは、私の母親がおぶって登校していました。高校は支援学校へ行きましたが、支援学校は寮生活だったので、どうしても車いすに乗らざるを得ないということで、春休みの2週間で車いすの練習をしました。車いすに乗る前は、親やきょうだいが私をおぶって街を歩いていたので、人目がすごく気になったんです。いつも振り向かれていたので。それで、今でいうひきこもりだったんですね。

太陽の家に来たのは高校を卒業してからです。別府に来て驚いたのが、別府市民は車いすの人を見ても振り向かないんです。当たり前になっているんだと思うんですね。今は別府市は人口が11万4,000人ぐらいなんですが、約1割は障がいのある方というふうにいわれています。

我々が食事とか居酒屋へ行くときは、何が気になるかというと、トイレなんですね。まずはトイレを基準に、行けるかどうかということを考えるのですが、別府という街は、大体のお店はトイレへ行けるんですよ。だから、本当に安心して食事ができます。食事の場以外も、ほとんどが誰でも入れるトイレになっている。別府という街は、障がいがあろうがなかろうが、普通に暮らせる街、我々が普通に生活して、普通に仕事ができる、そういう街だと感じています。

県外から来た方は最初驚かれると思います。別府ってこんな街だったんだなというふうに県外の方が言われるんですね。特にタクシーに乗車するときは、車いすをトランクに入れてもらわないといけないので運転手さんにお願いするんですが、全く顔色を変えずに、普通に接してくれるんですね。そういう街なんです。だから、別府は観光・温泉の街といわれていますけど、実は福祉の街でもあるというふうに私は思っています。

別府の街は、なぜ障がいのある方に優しい街なのか。太陽の家の先人たち、先輩たちが街に出て、いろんなお店へ行ったということが背景にあります。要は、車いすトイレとか、車いすで入れるような場所をつくらざるを得なくなった街です。障がいのある方が人口の1割いますから。行政が全く関与していないということは言いませんけれど、基本的には太陽の家が中心になって街づくりをしたのではないかなというふうに私は思っていますね。

○片山 なるほど。結局街にどんどん出かけていく、だから対応するお店が多い。これをすべきである、やりなさいとか、そういうのではなくて、いろんなところに出かけていって、社会と接点を持っているから、みんなの相互理解が深まって、そういう社会が自然と形成されたということなんですね。

○大日方 鶏が先か卵が先かですね。行くから広がるのか、行ける場所に行くのか。皆さん、バリアフリーの話をすると、「いや、来ないんです」と言うんだけど、「行けない」んですよね、正確には。せっかくつくっても来ないんですと言うんだけれども、つくられたことが「知られていない」んですという問題もある。だから、もったいない。でも別府は、そういう街を先人たちが切り開いてきてくださったということですよね。

○片山 多少無理して行って、場合によってはだめだったりしても、それがもしかしたら社会をちょっとずつ変えていく原動力になるかもしれないということですね。

【光浦高史氏】混じり合う場をつくる

○片山 太陽の家だけじゃなくて、別府にはAPU(立命館アジア太平洋大学)もあって、世界中から人が集まり、障がいがある方にも優しく、アートの街でもあります。光浦さんは建築という観点から多種多様な人が混ざり合うということをやられています。そこから何を感じて、どういうものがそこから生み出されているかということについて、お話を伺えればと思います。

○光浦 今の時代は都市が出来上がっているので、その都市をどう見直していくかという時代だと思います。大日方さんが、別府は多様性の街で、過ごしやすいところだとおっしゃっていましたが、私も外から来て、いろんなチャンスを別府でいただいているので、充実した街だという感覚を持っています。でも、一緒に行動させていただくと、まだまだだな、と感じるところが結構ありました。今日も竹瓦の方に行ったのですが、竹瓦温泉の入り口、スロープないぞとか。多様な人がもっと自由に動いていくためには、公共交通だってスッと行ってスッと降りられるという形の仕組みになっていないと使いにくいですよね。ここは研究どころだなというか、提案していかないといけないところなのだろうなと、建築にかかわる者として、感じたところが多々ありました。まさに街の未来を切り開いていく作業を私たちもしていかなきゃということを考えています。

多様なものが混ざり合うこと

○片山 今のこの社会、別府も含めて、まだ完璧とは言えないかもしれません。これからのより多様な社会、多様なものが混ざり合う世界というのは、どうあるべきか、どういうふうになったらいいなとか、それが例えばこの大分・別府でどう実現していければいいとか、そういう観点でそれぞれお話しいただけますか。

ハードとソフトとハート

○大日方 私はこの街に、今回で4回目ぐらいかな、短い期間にわりと何回か訪問させていただいていて、ここへ来るたびに、東京にいると、知らない間に身につけてしまっている鎧みたいなものが、空港に着くとフッと落ちる感じがしています。それ何だろうって考えると、さっき山下さんがおっしゃっていましたけれども、この街の人たちの空気なのかなって思います。タクシーに乗っても特に構えることなく接してもらえますし、飲食店でも車いすでトイレに行ったら普通に店の人に案内してもらうというのが、ごく当たり前にあるんですよね。バリアフリーの街とか、ユニバーサルデザインの街って、ハードもソフトも、ハートもないといけないとよくいわれます。私は、この街にあるのは、まずハートだなと思っています。障がいのある方がいるのが当たり前なので、ハートがある。

太陽の家が「なくなること」がゴール

○山下 先ほど申しましたように、本当に別府市は開かれたところがあるんですね。もっと発信すべきだと私も思っています。次は、大日方さん、移住してください、別府市に。

○大日方 はい(笑)。

○山下 待っていますので。私は年間数十回、いろんなところで、共生社会について講演して回っています。今我々は共生社会と言っていますけど、いつかこういう言葉がなくなる時代になってほしい。理解を求めなくてもすむ世の中になってほしいなと。別府市がまず様々なことで発信して、別府を出発点に、本当にそういう言葉をなくしていきたいというふうに思っています。

○片山 そうですね。中村裕先生も、太陽の家なんてなくなってしまえばいいというふうにおっしゃっていますもんね。本当に共生社会が当たり前になるときは、太陽の家が必要なくなるときですよね。

○山下 そうだと思いますね。太陽の家がなくなればいいというのは、障がいのある方が、囲まれた場所で生活したり仕事をしたりするんじゃなくて、本当に別府市民として普通に働くということを目指そうということでしたので、我々もそれを継承していかないといけないなというふうに思っています。

パブリックで実験する

○光浦 私は、古いビルを購入して再生しているのですが、そこを街が変化していくための拠点にしていきたいという思いがあります。そこで、「アキバのあきば」という空間実験をやったんですけど、そのときに、「起こる場を興す」というサブタイトルをつけました。違うことをやっている人同士が混ざり合って、新しい化学反応が起きていくような、そういう場づくりをしていきたいと思うんです。

その場所は別府の南のほうの秋葉通りというところで、潜在的な空き家がたくさんあって、これから高齢化も進行していって、市の視点から見ると中期的には課題の多いエリアだと思います。そこにアーティストとかクリエーターの移住ということも進めていきたいなとか、そういう中で、化学反応が起きる場にしていきたいなというふうに思います。

今回、別府大同窓会に参加させていただいて、発見がいろいろありました。歴史が積層している分、パブリック(公共)の場にはいろんなハードルがあるんだなということも実感したところではあります。ただ、その中でも、自分たちだけでなく、より若い世代の人たちと課題を発見しにいって、解決に向けて実験していくような場を設定していけると面白いというふうに思っています。例えば宇宙港になる大分空港と別府をつなげていく中で、どういう課題があるのかということについても、まだまだ探すといろんなことが出てきそうだなと。今日、大日方さんからも教えていただいた、まさにハードとソフトとハートのところを、みんなで共有しながら、また次の世代の方たちとも一緒に掘り起こしながら実験していくということを、パブリックの面で何か設定できるといいなと思っています。

「ごちゃ混ぜ」から何かが生まれる

○片山 2年前に初めて大分に来て、それから何度も来ています。別府は湯治の地なので、けが人や病人がどんどん来て、帰っていくみたいな歴史があると思うんです。よそ者をなかなか受け付けないエリアって、世の中あると思うんですけど、別府はその逆で、「おいで!」というインクルーシブな空気がもともとあるのかなというふうに思いました。

だからこそ、もしかしたら、中村先生みたいな人が生まれて、パラリンピックが実現して、太陽の家が生まれて、そして障がいのある方がどんどん集まってきて、優しい街になったのかもしれない。さらに世界中約100か国・地域から人が集まってくるAPUみたいな大学もあります。多種多様な人種や人、そして最近はアーティストも集まってきています。

アーティストというのはそこに多様な文化を持ってきます。もっと言うと、実は多様な文化があるところじゃないとアートは生まれないということが大前提にあるんですよね。ちなみに、アートが生まれたところは街の価値が上がる、簡単に言うと、不動産価値が上がる、そういう実証もあります。だから結果的に多様なものというのは、街自体の価値を高めていくという側面もあったりします。

別府は、血の池地獄、海地獄などの、神、仏、鬼、地獄みたいなものが、大集結しているわけですよね。そこにいろんな人が集まってきて、瀬戸内海との航路もあって、そして大分県にはさらに宇宙港もつくられようとしています。別府の周りには、陸・海・空・宇宙、神・仏・地獄・鬼、障がいある・ない、多様な人種・アートみたいな、それがごちゃっと全部集まっている。新しいもの、イノベーションを生み出すというのは、ゼロから新しいものって生まれないので、結局何かと何かの掛け合わせになります。多種多様な人が集まるというのは、イノベーションが起こる必須条件なんです。そういった人たちがせっかくこれだけ集まってるんですから、イノベーションが起こるような、施設なのか、プラットフォームなのか、ベンチャーキャピタルなのか、スタートアップのアクセラレーターなのか、バーなのか飲み屋なのか、そういった場所をつくっていくというのがこれからの大事な課題になるのじゃないかな、というふうに思っております。

○大日方 別府に住んでいる人にとっては当たり前すぎるので、インクルーシブな側面についての発信をわざわざしなかったり、大げさに喧伝しない心地良さみたいなこともあるのだと感じています。今日、お話しをしていて。別府に住んでいない人が別府の魅力をしゃべったらいいのかな、逆に外だから見える客観性みたいなものもあるのかなと思いました。

電通総研は、よりよい社会を目指して、何か我々ができることを発信していこうということをやっています。別府の街の素晴らしさは、別府だからできることもありますが、ほかの場所でも同じようなことを実現できる部分や工夫できることがたくさんあると思います。そして別府自身も、もっともっと多様な人が集い、面白いことやイノベーションが生まれる、もっとより多くの人が集まれる、そういう場になる、可能性のある街なのだということを、今後、電通総研からも発信をさせていただきたいと思っています。

Text by 若杉茜



大日方邦子 おびなた・くにこ

電通総研 副所長

1972年東京生まれ。3歳の時に交通事故により負傷。右足切断、左足にも障害が残る。高校2年の時にチェアスキーと出会い、スキーヤーとして歩み始める。1998年長野パラリンピックで、冬季大会で日本人初となる金メダルをはじめ、合計10個のメダルを獲得。2010年に選手を引退後、競技団体役員や審議会委員など、主にスポーツ、ダイバーシティ&インクルージョン、教育に関わる分野で社会活動を行う。大学卒業後、日本放送協会(NHK)に勤務し、教育分野やパラリンピック報道にディレクターとしてかかわる。2007年より、株式会社電通PRコンサルティング、2022年1月より現職。

1972年東京生まれ。3歳の時に交通事故により負傷。右足切断、左足にも障害が残る。高校2年の時にチェアスキーと出会い、スキーヤーとして歩み始める。1998年長野パラリンピックで、冬季大会で日本人初となる金メダルをはじめ、合計10個のメダルを獲得。2010年に選手を引退後、競技団体役員や審議会委員など、主にスポーツ、ダイバーシティ&インクルージョン、教育に関わる分野で社会活動を行う。大学卒業後、日本放送協会(NHK)に勤務し、教育分野やパラリンピック報道にディレクターとしてかかわる。2007年より、株式会社電通PRコンサルティング、2022年1月より現職。

山下達夫 やました・たつお

社会福祉法人太陽の家 理事長

山口県下関市出身、大分県別府市亀川在住。
1歳の時に高熱が続きポリオとなり車椅子生活となる。1984年IT関連企業である三菱商事太陽㈱に入社し、2014年代表取締役社長、2016年会長に就任。2018年退任と同時に太陽の家理事長に就任。太陽の家が共生社会の先進モデルとなり、「障がいのある人が取り残されることのない社会」を実現することを目標に掲げ、近年は、特に精神障がいのある人、発達障がいのある人の雇用に力を入れている。

山口県下関市出身、大分県別府市亀川在住。
1歳の時に高熱が続きポリオとなり車椅子生活となる。1984年IT関連企業である三菱商事太陽㈱に入社し、2014年代表取締役社長、2016年会長に就任。2018年退任と同時に太陽の家理事長に就任。太陽の家が共生社会の先進モデルとなり、「障がいのある人が取り残されることのない社会」を実現することを目標に掲げ、近年は、特に精神障がいのある人、発達障がいのある人の雇用に力を入れている。

光浦高史 みつうら・たかふみ

DABURA.m株式会社 代表取締役

早稲田大学理工学部建築学科を卒業後、青木茂建築工房所属を経て、2009年にDABURAを共同主宰として設立、2015年に法人化し代表取締役となる。宿泊施設や児童福祉施設等の設計で国内外の賞を多数受賞の他、2021年には大分県及び県立美術館と連携したパブリックスペース活用社会実験「カドウ建築の宴」でグッドデザイン賞を受賞。同年、別府市内の中古建物を購入し事務所を移転。今後建物を再生しながら、地域と連携した事業を展開予定。

早稲田大学理工学部建築学科を卒業後、青木茂建築工房所属を経て、2009年にDABURAを共同主宰として設立、2015年に法人化し代表取締役となる。宿泊施設や児童福祉施設等の設計で国内外の賞を多数受賞の他、2021年には大分県及び県立美術館と連携したパブリックスペース活用社会実験「カドウ建築の宴」でグッドデザイン賞を受賞。同年、別府市内の中古建物を購入し事務所を移転。今後建物を再生しながら、地域と連携した事業を展開予定。

片山俊大_02 かたやま・としひろ

株式会社電通 ソリューション・デザイン局
一般社団法人Space Port Japan共同創業者&理事

株式会社電通入社後、クリエーティブ、メディア、コンテンツ等、幅広い領域のプロジェクトに従事し、日本政府・地方公共団体のパブリック戦略担当を歴任。日本とUAEの宇宙・資源外交に深く携わったことをきっかけに、宇宙関連事業開発に従事。専門分野は「広告・PR領域全般」「新規事業創造」「M&A」「公共戦略/官民連携推進」「エンタメ・コンテンツ戦略」等。著書に『超速でわかる!宇宙ビジネス』(2021年、すばる舎)がある。

株式会社電通入社後、クリエーティブ、メディア、コンテンツ等、幅広い領域のプロジェクトに従事し、日本政府・地方公共団体のパブリック戦略担当を歴任。日本とUAEの宇宙・資源外交に深く携わったことをきっかけに、宇宙関連事業開発に従事。専門分野は「広告・PR領域全般」「新規事業創造」「M&A」「公共戦略/官民連携推進」「エンタメ・コンテンツ戦略」等。著書に『超速でわかる!宇宙ビジネス』(2021年、すばる舎)がある。

若杉茜 わかすぎ・あかね

電通総研プロデューサー/研究員

2022年4月より電通総研。活動テーマは「ケア」「ウェルビーイング」。クリエーティブ、コミュニケーションプランニングの実務経験と人文系研究のバックグラウンドを生かして研究活動をおこなう。

2022年4月より電通総研。活動テーマは「ケア」「ウェルビーイング」。クリエーティブ、コミュニケーションプランニングの実務経験と人文系研究のバックグラウンドを生かして研究活動をおこなう。